「不動尊の話」

 文政(西暦一八一八~一八四六 仁孝天皇)の頃、白道路に住まいする農家の父子が、高波山の東麓に草刈りに行き、息子が何心なく渓谷に放尿しましたところ、にわかに息子のある一部分が腫れて痛いと泣き出した。父親が驚き不思議に思って、放尿せしところを掘ってみたところ、地下三尺の所からその丈、二尺余りの石像を掘り当てたが、何の仏様かさっぱりわからない。極楽寺に行き泥にまみれた仏様を、よくよく洗って拝すると、像の左右に剣索と思われるものあり、正しくは不動明王であることが判明した。住職の教えにより元の所に石像を安置し、懺悔供養したところ、たちまち腫れが引き元のようになった。

 これは大変あらたかな仏像であることで、供養に専念し願い事をしたところ、願いは一両日の内に成就した。
 このことが村内近郷に伝わり、近くの住民はもちろん、遠く舞鶴や若狭からもお参りする人たちが、我も我もと絶えなかったと言う。

 天保六年(一八三五)の春、極楽寺の発願により開眼供養あり。導師は室谷正雄師、他に六人の僧侶によって盛大に行われた。三月二十六日より三日間の供養であったが、その間大雨車軸を流すが如く、二十八日八ツ時には嶺渓一時に鳴動し、百千の迅雷瞬時に落下せしかと見まごう有様で、一条余りもある岩石仮屋の側に落ちて止まり、ただごとにあらずと一同胆をつぶし、霊端の不思議にその身おののき、霊感むなしからざるを知って益々信心を増したという。その後もあらゆる願い事が成就したと伝えられている。