「高浪権現と鎌倉塚の話」

 古来、白道路村内高浪山の中腹に、通称『高浪権現』と称する神社が鎮座されておりました。延喜式神名帳にも記された式内社(式内社とは国の公的な神社として、国等からお供物が捧げられる地位の高い神社)で『河牟奈備神社』のことであり、この土地の人はこの山を神霊視し、病人があるとか怪我をするとかの場合には、『神浪神社』へ願をかける風習が残っておりました。

 場所は、大槻幸男様旧宅の裏山を少し登った所、社の立っていた境内跡があり、付近の人は今もこの山を、権現山と称しております。

 『神浪権現』は神威まことに顕著にして、神の位威を恐れないものに対しては、神罰忽ちにして下ると恐れられておりました。
 白道路を東西に走る村道向内街道(現 府道物部梅迫停車場線)は高浪権現の正面に当たります。
 向内街道の東西には、常に水の湧き出る小池(泉)二ヵ所があり、その池と池との距離は六丁(約六五〇米一丁は一〇九米)あり、東の小池の名前は十座の泉(現 門谷池手前左、廃車工場の西より現在荒池)西の小池は江戸畷道路の下手(上田昭一氏横穴付近)にありましたが、最近になり清水が枯れたためその穴に横穴を掘られたところ、良質の水が湧き出しましたので、横穴の中に泉が作られているとのことです。

 当時向内道路を通行するものは、高浪権現の位威を恐れ、武士たるものも乗馬にて通過するものも無く、東より来るものは東の十座の泉で身を清め、西から来るものは江戸畷の小池で手を洗い、武士たるものも下馬し、謹み通行したと言われております。

 あるとき(足利時代のころ)一人の鎌倉武士神威を恐れず、乗馬のまま通行しようとしたところ、忽ち何処よりか白羽の矢飛び来たり、乗馬の武士に命中、武士は立処に即死したと言われております。
 村人たち武士を哀れみ、道路わきの田圃の中に埋め塚を築き、霊を弔ったと伝えられております。村人たちは以来、この塚を鎌倉塚(古墳)と称しました。今もその古墳のあった(前期参照)田圃地を鎌倉田と言っており地名となっております。

 このようなことが起きたからか、高地に神様を祭祀しているから、神様の御威光が厳しいのである。低い所に祭祀すれば御威光穏やかになるであろうと、村人たちが相議かり、村下なる狭間山の下麓(上原幸子様宅裏山)に神社を移して祭祀しました。依頼地名をとって『下ノ宮権現』と称するようになり、その処の小字(白道路町第十一組)は今も下ノ宮と言われております。

 明治維新後、政府による神仏分離・神社整理策のため、明治六年村社上ノ宮神社境内に、諏訪神社・稲荷神社とともに移転合祀し、その後は下ノ宮神社と称するようになりました。例祭は毎年八月二十三日が宵宮です。

 私が子供の頃、お祭り等で下ノ宮神社にお参りしたとき、正面の格子扉に白羽の矢が二・三本、半紙に巻いて奉納されていたのを見た記憶がございます。昔だけでなく今でも、心配事や願い事のある村人が、昔の風習を聞いて願掛けをし、奉納したものと思います。これが白道路に伝わる鎌倉塚の由来のあらすじです。