物部地区の歴史

  • 領主の変遷 一覧表





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領主変遷年表2013022


近世初頭以前の物部の領主についてや住民の暮らのあり様を知るには、確たる資料を欠き、言い伝えや伝統行事として伝えられている村やお宮・お寺行事などから当時の村の暮らしを偲んでいます。

 しかし、関ヶ原の戦い後、徳川幕府統治になってからは、古文書など歴史を探っていく資料が発見され、先人たちの暮らしを確かな事実として知っていくことが出来ます。物部においては2009(平成21)年廃寺に伴い取り壊しが決まった高屋寺から(100点余)、またかねてより綾部の史談会が調査を予定されていた故塩見君子さん家から(1000点余)それぞれ古文書など貴重な資料が発掘されました。(「区有文書」「塩見家文書」

 物部の歴史を学ぶ会は、この2つの資料に加え「物部史誌」「綾部市史」などからも資料を頂いて学びを進めてきました。今回は1601(慶長5)年以降の領主の変遷を「領主の変遷一覧表」をもとにお話しします。

 白道寺の奥最寄りと西坂の口最寄り(西保)は小出氏(園部藩)に、白道寺の奥最寄りの他と西坂の中より奥最寄りは藤懸領―旗本―(上林)の統治下にありました。新庄は数年御領地として小堀氏の統治がありましたが、1624(寛永元)年から幕末まで綾部藩の九鬼氏の統治下にありました。この3町区については徳川260年間ほぼ1領主による統治でした。

 ところが物部(現在元物部と言われるところ)―上市・下市・須波岐(石ノ隈と太ヶ鼻数件を含む)・岸田―においては、一覧表に見られるように1669(寛文9)年から幕末まで4領主に分割統治されています。特に現在須波岐だと思えるところにおいては、御領地→田中氏→御領地小堀氏・山家藩→綾部藩・九鬼氏とたびたび変わっています。


 関ヶ原の戦い後、物部村を含む何鹿郡西部は福知城主有馬氏・岡部氏・稲葉氏ついで松平氏の配下にありました。この期間は一人の領主が支配しておりました。(これを「四給地」という)になったのでしょう。これには遠い九州島原で起こった「島原の乱」が関わっています。乱の平定に幕府は様々な策を講じましたが、その一つに領主替えがありました。その白羽の矢が福知山城主松平氏に当たり、大抜擢で島原に転封になったのです。領主不在になった物部はその後表のように御領地から4分割されていったわけです。

 一つの村が4分割されると、村運営においては何かと複雑な状況がありました。次回からその様子などが伝えられると思います。